『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』の話
3月2日(日)のエフエム宝塚「サンデー・トワイライト」は、上野が先日観た映画『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』の話をします。
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ペドロ・アルモドバル・カバジェロの新しい映画『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』は、余命いくばくもない元戦場ジャーナリストのマーサ・ハント(ティルダ・スウィントン)がその死の時、つまり安楽死を友人に看取られたいと願い、同世代小説家のイングリッド・パーカー(ジュリアン・ムーア)がそれに呼応し、ニューヨークからウッドストックの貸家に移り最期を迎えるというストーリーである。その展開の間にいくつもの記憶や寓話、エピソード、引用がほどこされ、深い内容の物語になっている。
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家族ではなく同性の友人との結びつき。日常的な「死のとき」は、家族のなかで迎えられるのがこれまでの人間の営みの形だったが、昨今は普段の生活を送っている者であっても、「非家族」と迎えることを選択することがある、とこの映画は言っている。稀薄化した家族の繋がり。死に向かうマーサには娘がいるのだが、何かによって長く疎遠になっている。そして、その父親のことは語られない。マーサの異性関係で登場するのは弁護士のダミアン・カニンガム(ジョン・タトゥーロ)であり、この知的な男は、マーサともイングリットとも関係があった人物であることがわかっていく。しかし、現在はふたりの女のよき協力者であり、人畜無害の男として描かれている。
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舞台のニューヨークのマーサの部屋のカラフルさ、彼女たちの衣裳の美しさ。それらがこの、深刻でもある安楽死(アメリカで安楽死は認められていない)という問題を遠ざけているのではないかという批評もあるようだが、しばしば登場する「雪」がカラフルな世界を覆い隠していく。その連なりのなかで、ジャイムズ・ジョイスの『ダブリン市民』の一篇「死せる人々」の末尾の一節がマーサに寄って引用される。
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「丘の上の寂しい墓地の隅々にも降っている――ゆがんだ十字架や墓石の上に、小さな門の槍先に、荒れはてた荊棘(いばら)に、雪は吹きよせられて厚く積もっている。」(安藤一郎訳・新潮文庫~映画の翻訳とは異なる)
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この映画を紹介してくれたTさんの評では、この文章は三好達治の詩を連想させるという。「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。」
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タイトルの「ネクスト・ドア」とは二人の女性のそれぞれの部屋の間にあるドアで、朝起きてドアが閉まっていたらそれはみずから死を遂げたことを意味する合図だ。マーサは明るい黄色の衣裳を身につけ、紅を引いて日光浴をするように永眠する。そして、それを見つけるイングリッドは、母の死の報を聴いて訪れる娘を迎え入れる。娘を、母と同じティルダ・スウィントンが演じている。
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いい映画だったので語りまくってしまった。